お笑い 2022.2.10
私が死ぬほど辛くなった時は、まず家に引きこもります。私はお笑いが好きで、特にキングオブコントとM-1グランプリという賞レースが好きなので、その映像をたくさんみます。面白かったコンビのSNSを見たり、動画、ラジオを見たり聞いたりして推しの芸人のことばかり考えています。その2つの賞レースに出るような人たちはまだ売れていないため、決勝に出たことをきっかけに、仕事が増えると嬉しくなります。推しが徐々に売れていくのは気分が良くなります。
そんなこんなで、うつ状態の時は、家ではその推したちの何らかの映像や音声を流し、外出している時もイヤホンをして常に流しています。仕事が終わり更衣室で着替えると同時にイヤホンをして聴き始めます。寝る寸前まで音声を聞いて寝落ちするため、睡眠中も聞いていることになります。今思うと、ここ4年くらいは誰かしらの芸人の推しがいて、その推しのネタや情報を常に浴びながら辛いことをやり過ごしているように思います。
被害者意識と自己愛性 2021.01.10
ずっと罪悪感というものを勘違いしていた。自分が罪悪感と思ってきたものは、実際には被害者意識だったと今は思う。誰かを傷つけたことさえ、「そんなつもりじゃなかったのに」と真っ先に傷つくことで、自分を傷つけたのは相手だ、と内心で責めていたのだと思う。
強い被害者意識は自己愛性パーソナリティ障害の特徴の一つだ。摂食障害が長引く要因でもある。どちらも、自分の問題を自分のものとして受けとめるところからやっていくしかないと思っている。
体力が落ちて 2020.05.03
精神的にヘロヘロになり引きこもっていたら、体力的にもヘロヘロになりました。立っていてバランスがうまくとれなかったり、指先に力が入らなかったり……。主治医に相談しました。最近調子が悪く、飲み物をこぼしたり皿を割ったりしています、と。
「それは自分で皿を割っているということですか?」
主治医はすごい剣幕でした。「いえ、力が入らなくてツルッとすべって皿が落ちて、というのを繰り返していて」「ああそういうことですか」ホッとした様子でした。今まで主治医に過酷な心配をさせてきたことをしみじみ思い知った一件でした。
いい子ずるい子 2020.03.03
痩せることで、親や学校、社会に無言で要求していた。あれをしてほしい。これはされたくない。自分の口で言うことはなかった。嫌われたくなかったし、発言することの責任を負えないから。その分、食べるものを減らした。色んなものを人質に取っていた。貴方との関係性。自分の命。私が思い詰めたらどんな風に壊れると思う?
周りは怖くて言いなりになるしかなかっただろう。「摂食障害になる子はいい子が多い」と昔は言っていたらしい。残念ながらそれは幻想だ。少なくとも私はいい子ではなかった。本当にいい子だったら、ちゃんと自分の口で言えたのだ。「私をデブって言わないで」と。
強迫行動をやめた理由 2019.09.03
過食が始まった時、私は太ることが怖くて、強迫的に運動をしていました。私が選んだ運動は、階段昇降です。高層マンションや高層ビルの階段をひたすら上り下りしていました。
とあるマンションの階段で初めてペットではなく人間の排泄物が落ちているのを見てビックリしました。そのうちに「ここで排泄しないでください」という貼り紙が貼られるようになり、「私が犯人と間違えられたらどうしよう」と不安になり、運動場所を変えるようになりました。
階段でトイレをする人がいるんですね。
(不)自由な家 2019.07.03
両親のことは好きだ。仲も良い方だと思う。でも、それだけというわけでもなかった。タブーの多い家だった。言ってはいけない言葉。考えてはいけない考え。縛りの多い家だったことを、今でも母は認めようとしない。父とは母を介してしかあまり話せなくて、父の考えを聞いたことはない。
親は親で生きればいいから、私は私で生きていきたい。
自由になりたいと言葉にすることも、本当は怖い。両親を否定してしまう気がして悲しい。そう思ってしまうのは私の歪みで、抱えた課題で、今持つことのできる私の自由だった。
拒食制限型(絶食激やせ型)とおでん 2019.04.03
ミモザ(デイケア)の特徴でもある、食事会。ちょっとした昼食会、ナイト夕食会、誕生会。その食事会のメニューですが、最近ヘビーな内容が続いていました。ピザ、カレー、ハンバーグ......やっとサラダになった!と思ったらツナ入り。そのツナ缶はカロリーオフ?ノンオイルですか!?
結局、怖くて参加できなかったことも。拒食制限型でも入れるメニューはないか?と皆で考え、出ました。おでん!これなら!!......蓋を開けてみたら「こんにゃくは短時間では味がしみないから」「野菜が高かった」等々、練り物中心のおでんに。
制限型、怖くても参加するか、悩むことになりました。
ミモザ(デイケア)の食事をこちらのページで紹介しています。
200mlが5リットルになりました 2021.11.10
ある時、旅行に行く許可を得るため、病院での体重測定前に水を飲んで体重を増やしたことから悪化は始まりました。それから体重を減らしても水を飲めばバレない、と考えるようになった私はどんどん体重を減らし、病院に向かいながら飲む水の量もどんどん増えていきました。
増える過活動、減る食べる量。親や病院の先生に対して体重を誤魔化していること、食べていないのに食べていると嘘をつくことは辛いものでしたが自力では体重を増やすことはできませんでした。
そんなある日、いつも通り病院で採血をしたら肝臓の数値がいつもよりも桁違いに悪く、体重どうこうではなく入院と言われました。2回目の入院のことでした。そこで初めて体重を水で増やしていたことを白状しました。
現在、症状は回復しています。それはやはり、2回目の入院の前の辛かった思い出の頃には戻りたくない、という気持ちがあるからだと思います。人に嘘をついていたことはもちろん、秋から厚手のコートとマフラーを手放せない寒さ、回らない頭、コントロールできない過活動…。痩せていることが必ずしも幸せに繋がることはないと感じました。
狂おしい程愛しく憎いこの世界という戦場より 2022.5.10
いつからか…私は家族を家族と思えず、「ルームシェアの人」と捉えるようにしました。ずっと不安な日々をやっとの思いで生きてきて、「ちゃんとした人間であれ」と親等から唱えられ続け、失敗を恐れ、嫌われることに怯え、上手くできない自分をどう律すれば良いかわからず。
いじめ、入院、家庭崩壊。私はただ家族に愛されたかった。
でもそれが叶わなかったことで私は壊れました。
心身共にボロボロになっていく中で、「助けてくれ」と縋った私を
嫌な顔をして追い討ちをかけた彼等を「大事な家族」と考える事が出来る筈も無く。
減っていく友だち、うまく息が出来ない日々。
救われるには「家族」を辞めるしか私には出来ませんでした。
友達等へ相談を受け、「救われた」と言われる度に私が救われたりと。
今でも発狂するのではと思う朝があり、でも生きる事を諦められない自分がいます。
狭い世界で生きてきた私はまだ見ぬ世界をもっと知りたいと思う、この気持ちでギリギリ己が命を繋ぎ止めています。行った事のない土地、話した事がない誰か。それらがきっとこの先待っているなら私はまだ生きてみてもいいかなと。世界は広大で見方を変えれば救いになる「何か」も沢山だと、私はそう信じています。明日は何があるか、明日なんて来なくていい、両方あっていい、それが生きるという事だと。
自分を生きる 2022.1.10
私は39歳で二児の母をしています。10歳の頃から離人症、パニック障害、そしてBPDと一緒に生きてきました。若い頃はいつも生きることがただただ辛く、生きていることに何の喜びも感じることはなく“消えたい…この先、いつまで生きるのか”と絶望していました。しかし28歳の時、良きパートナーに出会い、娘と息子を出産したことで、昔よりも生きていることに幸せを感じるようになっていました。
そんな私に昨年、大腸がんが発覚。死にたいと思っていた頃には死なせてはくれなかった神様は“生きていたい”“少しでも長生きをしていたい”と気持ちが変わっていた時には、その願いは叶えてくれないのか、なんて残酷なのだろう…と思いました。
運よく手術をして復活することが出来た私は、初めて生きるということをしっかりと嚙み締めたのです。何かを求め続け、“現状を変えないと今の自分ではダメで、もっとこうじゃなくちゃ”そんな長年の自分の思いに、“それって一度しかない人生なのにいいのか?”と問うようになりました。
私は私でいたい。一度だけ与えられた時間は誰のものでもない私だけのもの。どれだけ幸せを感じられるかも自分が決める。私は私が築いた人生を楽しみ、笑い、泣き、怒る。この先どんなことがあろうとも、生きていくことが楽しみで仕方ないのです。
日常を持つこと 2021.05.10
衝動的な自傷行為をしそうになり主治医に電話して助言をもらうと「人の中にいた方がいい。ド〇ールとか」そう言われ、小説や日記帳、Bluetoothのキーボードやらを持ってド〇ールへ。バッグから小説を選び、その場を凌いだ。そんな中、メル〇リは売れるし趣味の仲間からメールが届く。
日常を持っていると日常が私を助けてくれる存在となり、日常にまぎれることで日常へ戻れると知った。そして、ピンチになった時忙しい中でも助言をもらえて感謝した。しかし主治医よ、なぜド〇ール?
幸せの痕 2021.05.10
親戚の家に子猫がやってきた。くるりと反り返った耳をした子猫は膝に収まるほど小さい。可愛い!!先日、再び会いに行ってきた。赤ちゃんだった子猫は、元気に跳ね回るおてんば娘になっていた。私の腕に甘噛みして戯れ、小さな歯が両腕に大量のミミズ腫れを作った。施設の仲間は「自傷だ!」と笑った。
なるほど自傷か。新鮮だった。孤独に耐えきれず作った消えない自傷跡は自分のことを嫌いにさせる。だが、今腕にある傷は子猫と楽しく遊んだ証拠。子猫に愛された証だった。
報われる時 2021.03.10
私は虐待家庭で育った。父に引き取られ、知らない人が母になり、私は異物として扱われた。「家族」にさせて貰えなかったし、努力してもなれなかった。だから今でも、どんなに大切な人も信じられないと感じてとても怖い。きっといつか何かで裏切られる、と。友達にも、家族にも。愛する人にも。
それでも信じたい気持ちはやめられない。みんなに大事にして欲しくて、大事にして欲しい分だけみんなを大事に扱ってしまう。そして期待の分だけ裏切られる。繰り返し。そんな形は歪んでいるかもしれない。でも無駄じゃない。受け取ってくれる人はいて、「そんな私と一緒にいてくれる人」という形になって、必ず報われる時が来る。今だってそばにいる。
過去と向き合う強さをください 2020.11.10
ずっと過去は変えられないと思っていたが、それは違うのかもしれない。生き別れた母の所在を戸籍を使って調べた。役所を渡り歩き、私の本籍地から母の所在の他に、縁を切った母方の家族の現在の状況まで分かった。
縁を切っても書類上は家族と証明されたことで、私の心に変化が起きた。過去は変えられないが、過去の見方は変えられる。ただ劣化していくだけだと思っていた過去のしこりは風化に向けて動き出した。今でも難しさはある。それでも何十年と時を経て、私は過去と向き合っている。
入院作法のススメ 2020.03.03
診察中に具合が悪くなり帰れる状態でもなく医師から入院を勧められた。今まで診察中に意識をなくして医療保護入院になったり散々やらかしてきた私は今までの愚行を反省し、家族に電話し、医師にも協力してもらいながら現状説明と入院の許可を得た。
「申し訳ないですが入院させてもらっても良いでしょうか?着替えだけ届けてもらえると助かります」との電話の後に、車椅子のまま自分で入院申込書などの書類を書いた。“病気があってもやれることをする”、自分が人として在る為に必要なことである。
自己肯定感ってなきゃダメなの? 2020.02.03
私には自己肯定感などない。自己肯定感があれば、そもそも病気になっていないだろう。自己否定の毎日じゃ安全に過ごすことはできないため、私はダメな自分をそのまま受容している。
「ダメな自分でもいいじゃないか、自傷しなかったし」と禅問答を繰り返し、自分と折り合いをつけている。 時にはノートに感情を書くことで俯瞰して眺めて、感情を置いている。
今さら自己肯定感を高めようと何かで埋めようとしても埋められない。「自己肯定感のない自分を受け入れる」、それは等身大の自分を謙虚に生きることだと思っている。
生きる決意の中で 2019.09.03
ある日、目が覚めると、とある外科病棟のナースステーションに置かれたベッドの上だった。どうやら解離したのち自傷行為をしたらしい。
その数年前、好きになってくれた後輩が大病の末に亡くなったと聞いた時、私は自傷行為の真っ最中だった。後輩が亡くなったのに何してんだろう?と自傷行為をやめると決意した。しかし、どんなに決意しても願っても、かなわずに自傷行為をする。それが症状なのだろう。
当時「強いんだか弱いんだか分からないや」と彼は言った。少しは強くなれただろうか?私を生かしたのは彼かもしれない、とベッドの上で思っていた。
危険な私 2019.08.03
ある日の診察。「平穏な生活が心地よい時とたまに物足りなくて刺激を求めているときがあるんです」と私は話をした。主治医は「あなた、昔は刺激のない生活を送るくらいなら死ぬと言っていましたよ。だいぶ変わりましたよね」と一言。思い出した!ボーダー全開のときの私を。カウンセラーの「安全第一だよ」との指摘を鼻で笑ってた。「何が安全第一だ!スリルがなくては生きてる心地がしない」そんな風に思ってた。お恥ずかしい。そう考えるとやはりある程度年をとり、色々な人との関わりの中で経験を重ねることで落ち着くのだと思った。
自分の感情と向き合って 2019.06.03
ここ一年間、20年以上続けてきた過食嘔吐や男性依存などの症状をしないでいられている。症状が酷いとき、これがなくなったらさぞ楽になるだろうと思っていた。しかし、そうではなかった。今までいかに異常なことをしてきたか、それにより大切な人達にかけた沢山の迷惑、数えきれないほどの後悔。
今、症状を使ったら一時的には辛いことから目を背けることはできるだろう。でも、もっと後悔が増えることになる。そう思うから症状には走らないですんでいる。これからも一日一日症状を使わずに溢れる感情に向き合って日々を過ごしていきたい。
ボーダーラインの危機回避方法 2019.03.03
解離性障害(BPD)通院歴16年。ボーダーラインにとって過食症状は可愛いものだと感じている。リスカやODなどの問題行動に比べれば、危険は少ないと私は感じている。過食しているよりもハードな衝動行為や解離症状の方が人を巻き込んでしまうことが多い。
抱えきれない悩みや辛さがあった時、頭の中を「リスカしたら楽だなー」という思考がよぎるのだが、直後に「絆創膏すんの面倒だし、膿んだら治りが遅いしなぁ...」と、した時の面倒を思い出す。
「やるの面倒だな」と、ため息とともに過食の材料調達へと向かうのだ。
私を変えてくれた経験 2022.3.10
私が自分を変えようと思ったきっかけとなった出来事はある底つき体験でした。それまで私はどこかで自分を変えなければいけないことは分かりつつも、それを認めたくない気持ちによって踏み出す勇気が持てませんでした。だってこうなったのは私が悪いんじゃない、私ばっかり余りに不公平じゃないか、そんな思いがあったと思います。
そんな私にその体験は、変わるか否かの決断を突きつけてきました。それまで自分を変えるなんて、自分が歩み寄るなんて考えもしなかった私が、自分の間違いを認め自分を変えてみようと決意出来たことはある種の成功体験でした。長い間握り締め、後に引けずにいたものを手放せたことで、私の心は一気に軽くなり、そしてそんな自分のことが少し好きになれた気がしました。確かに底つきで最低最悪な体験ではあったのですが、今となっては自分を変える勇気と覚悟を与えてくれた貴重な経験となりました。
その後も性根は変わらないのか、ことあるごとに我を張ることを繰り返していますが、下手なりにも手放すことが徐々に上手になったように思います。その繰り返しで少しずつ角が取れ、社会でも底々上手くやっていけるようになりました。つい我を張ってしまう自分が大切にしなければならないのは謙虚さと相手を思いやる気持ちだということはこれからも忘れずにいたいです。
希望の声 2021.12.10
眠れない夜がきた。
逃げたい。消えたい。朝が来るのが怖い。
朝陽が昇り鳥が鳴く。あぁ、また今日も朝が来た。
朝陽を見て今日も朝が来てしまったと涙が零れる。
鬱病の私の朝は涙が零れることから一日が始まる。
いつもの電車。ホームに溢れかえる人々。
まもなく○番線に列車が参りますご注意ください。
ねぇもういいかな…楽になってもいいよね?と自分の心に問いかける。
いいよ。と聴こえた気がした。
ふぁと足が電車に吸い込まれそうになった。
次の瞬間確かに聴こえたんだ。
生きたい!!!という心の叫びが。
電車の物凄い汽笛音で我に返る。
全身ががくがくと震えていた。生きている…。
大粒の涙が頬を伝い溢れて止まらない。
「おかえり」母の優しい声に笑顔が零れる。
今夜が眠れなくて心に土砂降りの雨が降っているあなたへ。
私はあなたの心の傘になり背中をそっと擦ります。
いつか必ずくる。朝陽が綺麗と涙を零す日が…。
一緒に朝陽をみませんか?
私の伴奏者 2021.03.10
私はうつ病を持っています。もう18年も、です。そんな私の最大の敵は罪悪感マンです。遊んでいても仕事していても『こんなことやっている場合じゃない、他にするべきことがあるだろう』と心にいつも言ってくるのです。
あまりに近くに居すぎて、離れられなくて、私にはもう、コイツが敵か味方かわかりません。でも周りの人達に「敵ではないらしい」と教えられてコイツと付き合って生きていく練習をしています。
40歳になって知ったこと 2021.01.10
昨年初めてがん告知に関する問診票を書きました。生きていく上で迫られる大きな決断や選択がどれほどあるか、それを40歳になるまで知らずに済んだのは何とおめでたいことだったか、自分の見ている世界は何て狭かったのか思い知らされました。
病気は自分次第で何とかなると思ったり、それを人に押し付けたりしていなかったか思い返し反省もしました。自分の経験を離れた想像力を持ちたいと思った出来事でもありました。
衝動を越えて 2020.11.10
あんなにも、死にたかったのに。あんなにも、過食嘔吐を止められなかったのに。でも私は今、こうして確かに生きている。そして危ういながらも、平和な日常を送っている。
何故?なにゆえ、私の激しい衝動は治ったのか。これといったきっかけは特にない。もちろん紆余曲折はあったし、今も100%衝動が治ったとは言えない。ただ、私はあきらめなくなった。ひたすら生き続け、一心に歩み続けることに。衝動のベクトルをそこに向けようと心掛けることに。
幸せは来世に 2020.09.10
私の家庭はどこかおかしい…そう幼い頃に気付いてから、26歳になる今まで、割と生きることが地獄だった。いつか一般人のように幸せに…と欲を出して色々やってみるものの、大抵うまく行かない。
けれどつい最近、お告げがあった。「現世は仕方ない。残念。だから来世はめっちゃくちゃ幸せになる」と。そう。現世はもういいのだ。私が生きる場所は来世。来世が私の本当のステージ。私は来世で輝くのだ。現世は、そう、束の間の悪夢。だから毎日眠る前に自分に言い聞かせる。これは全て夢だよ、と。
負けても大丈夫 2020.08.10
私の基準はいつも「負けたくない」。「勝ちたい」のではなく、「負けたくない」のだ。もちろん勝ち負けの基準はあいまいで終わりなんてない。常に何かと闘い続けて身も心もボロボロになるし、逃げたくても逃げられず(逃げようとせず)、疲れ果てていた。
そしてある日突然力尽きて…なのか、救いの手…なのか、「負け」がやって来た。
「負けた」とは認めたくなくて、もがきもしたけど、私は私のまま。負けたら私じゃなくなるような気がしていたけど、実際は何も変わらなかった。
負けても大丈夫。いや、負けてからの方が生きやすくなったような気がする。
復讐 2020.05.03
私の中学時代は青春の欠片もなく、3年間全学年の男子から壮絶ないじめを受けていた。「キモい」、「バイ菌」呼ばわりは当たり前で、背後から蹴られたり、唾を吐きかけられるのも日常茶飯事だったが、これらは序章に過ぎなく、筆舌に尽くしがたい経験だった。
大人になり、躁状態に転換した私は、中学時代とはまるで別人のように男を漁り、モテ遊ぶ事を快楽としていた。今思えば、私はきっと、男に負けまいと、見返してやりたいと必死だったのだろう。これは私の復讐劇だったのかもしれない。
なんでも大丈夫!? 2019.12.03
面接で「週4日で当分しばらくの間はお願いします」と伝えてあった。勤め始めて約1カ月半。なんの相談もなく勤務表を見たら週5日や6日が!「勤務大丈夫?」と聞かれたが「はい。とりあえず大丈夫です」と答えてしまった。頭の中では『なんで週4じゃないの?』と思っていても言うこと(主張)はできない。そして不安になってしまう。さらにその決まったシフトでやり遂げることを目指す。
母の幸せと私の幸せ 2019.05.03
私は病気になってから母とうまくいっていない。そっけない態度を取るし、意に反するとムカついてしまうことがある。母に心を許していないし、母に頼るのも嫌な気持ちになるから、とことん避けている。そんな私みたいな娘、親に心を開かない娘をどう思っているのだろうと疑問である。
親はどんな娘でも可愛いのか?私はいつまで母を避け続けるのか?
おそらく、私の心の中の問題だと思う。
主治医は、あなたの人生のテーマは「家族」ですと言った。
死ぬことを止めるもの 2019.02.03
仕事上の問題及び家庭内不和から携帯で楽な自殺の仕方を毎日検索していた。必ず出てくるのが「いのちの電話」だった。
居場所がなく、いのちの電話に電話したが「おかけになった電話は大変混雑しています」というアナウンス。数十回電話しやっと繋がる。
ある日連絡が取れないだけで周囲に迷惑をかけることを目の当たりにし、勝手に死ぬのは誰にも迷惑をかけることじゃないと思っていたがそうではない現実。
僕はとりあえず「死ぬこと」を止めているのは仲間、ドクター、過去の衝撃的な出来事です。
とりあえずコーヒー 2020.07.03
私は一日コーヒーを6~8杯飲みます。
コーヒーは私の薬みたいな物です。余裕の無い時はインスタント。少し大丈夫な時はドリップ。逆にとことん落ち込み、鬱の時はミルで豆を挽いて淹れます。
自分だけの為に淹れるコーヒーは別格に美味しい。つまり自分だけの為がポイントです。コーヒーは私にとって、手当てと同じです。
悪魔の考え 2020.10.10
私は、これまで二度、精神病院の閉鎖病棟に入院してきました。二度目の入院後、2、3日で死にたい気持ちは、収まり、約1か月と1/3で退院する事が出来たのですが、僕の根本にある、「悪魔の考え」は、一向に消えませんでした。
その考えとは、「50歳になっても結婚出来なかったら、自殺しよう」という考えです。この考えは、25歳位の時から2021年5月頃まで消える事は、ありませんでした。何故50歳になったら、自殺を考えていたかというと、50歳になってからでは、出会いも恋愛も出来ないと考えていたからです。
この考えをカウンセラーの先生、担当の精神科医に話してもこの考えは、消える事は、ありませんでした。この約10年に及ぶ「悪魔の考え」を消してくれたのは、とある女性でした。その女性は、僕の「悪魔の考え」を聞くなり一言、「怖い」と言ってくれました。
その時、ハッとしました。「これが定型の考え方なのか?!」と思いました。僕は、今まで人を自分の考えをさらけ出す事で他人を怖がらせた事は、ありませんでした。なのでその時から「自分の天命をまっとうして今を生きよう」という考えに変わり、今に至ります。僕は、人の発する「言葉」に影響を受けやすいです。だから「天命をまっとうするまで生きる」に変えられたのだと思います。
私がどうにかなりそうな時の対処法 2021.08.10
まずは安心安全な所に電話で話を聞いてもらう事を考えます。電話できそうな所を事前にリストアップしておいた時期もありました。最近この安心安全というのに心を配っています。身近な家族や彼に相談した事で更に傷ついてしまったという事があったからです。
電話の時間もずっと話してもらえるわけでないので、次は何かを食べてお腹一杯にして眠気を誘うという事や、頓服薬を飲んで横になり携帯をいじり辛い感情を一時的にシャットアウトします。そのうちに薬の効いてくるの待ちます。待ってる時間は長く感じるものだと思います(涙)。
MAX9時間 2019.12.03
大きく動揺すると何時間でもそのことについて、慌て続けてしまう。主治医曰く「混乱が長時間続く」のだ。混乱すると頭が同じところをぐるぐる走る。気持ちの切り替えが、まるでできない。
それでも最近やっと、混乱が落ち着くまでの時間がわかった。私の場合は「9時間」だった。9時間を過ぎるとなんとか別のことを考えられる。10時間以上混乱してたらカウンセリングの予約を入れる。何かが起きても「9時間は慌てても良い」と思えて楽になった。
本態性振戦 2019.11.03
僕はちょっとした事で手や足が震える、「本態性振戦」という病気の当事者でもある。片手で飲み物の乗ったおぼんを持つ時、フォークで皿に盛ってあるサラダをすくう時等、他人から見れば当たり前に出来ることが僕には出来ない。
昔は、この震えをよく知人に指摘された。今は、言われないが、もしかしたら言わないだけで心の中では思ってるのかもしれない。でもこの震えも僕らしさである。そう今、思えるのは、友達の存在が大きい。
振戦で悩んでいる人は僕以外にもいると思う。本態性振戦への理解が広まることを願いたい。
発達障害は、個性? 2019.06.03
皆さんは、発達障害を人から尋ねられた時、どう説明していますか?
僕は「人の心の中に五体満足の人がいるとする。発達障害を持つ人は、そのうち右足、左足、もしくは、両方の足がないんだよ。社会という名の道を発達障害者は、這いずるか人に担いでもらうか「車椅子」か片足で飛び跳ねるか義足つけるかで精一杯生きて、歩いてるんだよ。」と説明してます。
僕はこのような考えにたどり着いた時、「発達は、個性」という考えをしなくなりました。立派な「障害」です。だって心の中が五体満足の人ができることが「配慮」や「支援」を受けなきゃできないことがあるのですから。
見えない障害 2019.05.03
精神障害は外からは見えない障害だ。それ故にできないことに対して「怠けているからだ」と周りから言われたり、自分でも思ったりしてしまう。調子に波があるので頑張ればできる時もある。だから余計に「なんでできない」と周りから言われ、自分で自分を責めてしまう。
どうしたら健常者のように普通に自然に当たり前のことを当たり前にできるのかがわからない。いや、当たり前のことを当たり前にできないから『障害』なんだろうが、そうは見えないから厄介だ。いつか『健常』も『障害』も関係なく『自分らしく』自然に生きていけるようになりたい。
部屋が片付けられない 2019.02.03
部屋を片付けられません。どうしても、片付けられません。左右にスライドできなくなったスライド式の本棚。物でふさがって開かない押し入れ。中が空っぽの洋服ラック。床ですか?見えません。
これではいけない!ひきだし付きの大きなベッドを買いました。収納できます!なんでも入ります!!
ベッドを買ってそろそろ3ヶ月。まだ、ひきだしの中は空っぽです。床ですか?見えません。
6月 2021.07.10
6月は娘が川を渡って逝ってしまった月。
今ごろは、向こう岸で「番人」として、渡ってこようとする後輩たちを追い返しながら、可愛がっていたペット達と、自由にのんびり過ごしていることだろう。
あの日の朝は、少し蒸し暑くて雲の間から日がさしていた。その後の出来事が次から次へと頭をかすめて、今でもふとした時に鮮明に蘇ってくる。あれから4年が過ぎたが全く薄れることはなく、それどころかもっと深いところに確かな爪痕を残している。
6月になると、私の自律神経は乱れに乱れ、動悸や喉の詰まり、鬱状態に悩まされる。とにかく自分を追い込むことで何とか1日を過ごしているが、今までで一番辛いように感じる。
娘の事を知っている周りの親しい人たちも、私を気遣ってか思い出話をすることはなく、4年目のその日もいつもと変わりなく過ぎていった。
「今はただ会って話がしたい。」
恥ずかしそうに微笑む遺影の横に、ピンクの紫陽花を飾った。
人は見た目が100%?? 2020.09.10
「こんな顔だったら生まれてきたくなかった。」25歳の娘は大学2年生になった頃、整形したいと泣き叫んでいました。成人して自分のお金でするならどうぞと言ってきましたが、結局お金は貯められず、親から借金をして整形を始めました。
11歳で拒食になった時は転校が決まっていて、第一印象が大事だからと、ダイエットから始まりました。18歳で再び痩せた時には、痩せても可愛くなれなかったと言っていました。整形はしても今、満足していません。人は見た目ではないとわかる日が来て欲しいと願うばかりです。
来世で逢えても 2020.07.03
Uさんのお墓参りをする度に私達三人は色々なお喋りをする。今はUさんのお母さんもお墓の中だ。お父さんはUさんの思い出を、私達は娘のその後の話をする。長い年月のうちに中身は少しずつ変わってきた。お父さんはお母さんとの最期に、また次も一緒になろうねと約束したそうだ。
皆に慕われたUさんはきっとまた何処かに生まれるだろう。そして、以前より成長した多くの私達と出会って、きっとまた何かを始めるに違いない。でも何より今度はずっと居てほしい。本当はそれしか願わない。
11歳で拒食になった時は転校が決まっていて、第一印象が大事だからと、ダイエットから始まりました。18歳で再び痩せた時には、痩せても可愛くなれなかったと言っていました。整形はしても今、満足していません。人は見た目ではないとわかる日が来て欲しいと願うばかりです。
お守り 2020.02.03
娘の枕の下に薄いカミソリを見つけたとき、ショックと驚きで全身が硬直した。
どうしたらよいかわからなくて、相談室に駆け込んだ。
カウンセラーの先生は落ち着いて「それはお守りみたいなものなんだよ。」と言う。
最初は意味がよくわからなかったが、自分自身に「お守り お守り」と言い聞かせ、娘の前では知らないふりをして普通にふるまった。
とにかく、想定外のことばかりで、その度にハラハラドキドキしていたが、だんだん慣らされていった。
笑顔の思い出 2019.08.03
幼い頃、娘は大きな声でよく笑う子だった。
子供の時の笑顔を思い出すことが、最近よくあるが、いつも13歳で止まってしまう。
それから後の笑顔がほとんど思い出せない。楽しそうに青春時代を送る他の子達と娘を比べては、不憫でたまらなかった。
私の子育てが悪かったのだ。もっと愛情をかけていたら・・・もっとしっかり話を聞いていれば・・・堂々巡りの後悔ばかり。いつも暗い顔をしていたと思う。
「そんな私を見るのは娘にとっても辛かったのだ。もっと自分を大切にして楽しまなければ」と気づくのには、ずいぶん時間がかかってしまった。
精神科 2019.04.03
今から15年前、初めて娘の付き添いで精神科に行った時、私は緊張と不安で震えていたのを覚えている。インターネットで調べて訪れたそのクリニックは薄暗くて、待合室には4、5人の若い男女がいた。先生はどんな感じなのか、診察はどのようにするのか、薬を飲んだら良くなるのだろうか...とにかく不安だった。
「自分が、そして娘が精神科と関わることになるなんて思ってもいなかった。」
今思えばほんの序の口のことだけど、その時は真っ暗闇に突き落とされた思いがした。
アルコールに見る夢 2022.6.10
毎日、プルタブを引く指先に夢を見る。これを飲めばもう少しマシな私になれるはず。これに酔えば、何もかもが上手くいくはずだ。そんな夢を抱いて酎ハイを一本空ける。だが一本では上手く酔えないからもう一本、それでも足りないから更に一本…。そうしてどれだけ空き缶を増やしても、夢に見た「マシな私」なんてものは訪れず、毎日記憶のないまま一日を終える。やがて朝を迎え、浮腫んだ顔を見て思うのだ。『ああ、またやってしまった』と。
アルコールに頼ったところで、何も好転しないことぐらい分かっている。夢に見た姿は夢のままで、実際には何も変わらずに同じことを繰り返している。それでも毎日飲んでしまうのは、普段の私では私自身の生き方を緩められないからだ。お酒を飲めば一時の高揚感と解放感が訪れる――のだと思う。実際にはよく分からない。酔っ払っている時は、多分ほとんど何も考えられていない。でも、その何も考えられない状態こそ、私が欲しいと思っているものなのかもしれない。
だが所詮はアルコールの力、全てはまやかしなのだ。酔いが醒めた時に残っているものなど何もない。根本的なものは一切解決などしない。そう理解しながらもまた夢を見てしまうのだ。この一杯に、この一缶に。指先にありったけの期待を込めて、私は今日もプルタブを引くのだろう。
心を無視していたら自分が失くなった 2021.09.10
初めての職場から誰よりも速く素晴らしい成果を上げるべく、息を止め全力疾走する勢いで自己犠牲的に働いた。無理せずマイペースな周りを攻めたり燃え尽きたり仕事は続かなかった。転職を重ねる度に環境は悪くなり身も心も削れ荒んでいった。惨めさを誤魔化し限界を超えて働く為に酒を使い始めたら、瞬く間に借金は膨れ上がり仕事に穴を開け居場所は酔いの中だけになった。
唯一のプライドだった仕事を失い孤独に耐え兼ね飲みながらAAに通ったら2年弱で断酒できたが、自分を偽れないので現実はより厳しく感じられた・・・急いでる人が恐くてバスを降りれなかったり理不尽な要求や扱いにNOが言えなかったり仕事中毒と鬱(現在重症長期化)を繰返したり。生活保護を切れず、劣等感が疼きAAにも居られなくなった。
感情と向き合う病院Prg.への参加を切っ掛けにACoAに繋がったら幼少期を思い出した。遊びもスポーツも勉強も手伝いも常に怒鳴られながら。頻繁な暴力は始まると長時間続き、恐怖と痛みを切り離すしかなかった。いつも怒りに怯え自分の存在を消したかった。
自己肯定や自尊心が無いまま既に50代半ば、必死で空回りばかりの人生は虚しく悲しい。無価値感を払拭し少しでも自分に自信を持ちたい。
苦しいのは最初の一年 2020.08.10
酒と決別しなければならない事を知った時、押し潰されるような不安に襲われました。恐怖に近い感覚でした。なぜならその当時の僕にとって、酒は荒んだ心を癒してくれる一番の存在であり、生きていくために欠かせない物となってしまっていたからです。
不安と恐怖と絶望に負けて何度も何度も断酒に失敗しました。この感情が死ぬまで続くのならいっそ呑んでしまえと思う訳です。断酒できてる今なら解ります。苦しいのは最初の一年。それを過ぎればうんと楽になる。そう教えてくれたのは自助会でした。
過去に照らし合わせると 2019.11.03
酒害相談というものがある。いま正に酒の問題で大変な状況に陥っている当事者と家族からの相談を受け、治療に繋げるのが目的。無償の活動だ。
家族は疲弊している。本人は口では止めるようなことを言っていても、呑みたくて仕方ない。たちの悪い相談ほど、自分を振り返れる。なぜなら自分がたちの悪いアル中だからだ。
・・・今は酒が止まっているけど、呑んだらこうなっちゃうんだよな・・いやぁ~酷い・・俺も家族をとんでもない目に合わせちゃったよなぁ~・・
自分を振り返れるのが何よりの報酬だ。
自己中な認知 2019.07.03
呑んでいた頃、喜怒哀楽は酒の肴だった。
怒りや哀しみを押し殺すために一人自室で酒を飲む。
考えることは、
・・畜生、あんなことさえなけりゃ、今頃、俺は・・・
無数の選択肢を、決めてきたのは全部自分のくせに、誰かや何かのせいにする。
うまく行けばうまくいったで喜びや楽しさを、自分の手柄にして酒を飲む。
・・ははは、さすが俺だ、俺様だ・・・
いま考えると恥ずかしい。
うまく行かない時こそ自分の責任。うまくいっているのは沢山の人達のお陰。
僕は、そんな当り前のことさえ判らなくなっていた。
減酒外来は未病対策 2019.03.03
アルコール依存症(アル中)になると、節酒(節度を保った飲酒)はできない。僕自身、身をもって体験している。断酒している人は大概、骨身にしみて知っている。
アル中と診断されても節酒できてるよ。と思う人がいれば、自分で思っているだけ。周囲に多大な迷惑をかけていることに気が付いていないだけ。僕もそうだった。
最近、減酒外来というものがある。
飲酒欲求を減らす薬を用いて節酒させようという医療。これはあくまで健常者に対する未病対策。依存症には効かない。
絶対に間違えないでほしい。
結局は正解に辿り着く 2022.4.10
2022年4月、私は高校生活を終えました。昨年「卒業はできない、留年になる」と言われ、頭の中は真っ白になりました。周りの同い年の方達は沢山のお花を貰って、写真を撮って、泣いていて。私には凄く胸が締め付けられる気持ちでした。
先が見えない苦しさに何度も辞めたいと、親と喧嘩しました。高卒という学歴は不可欠と周りに説得され学校に行く気を失いました。なんとか周りの力を借り、2022年3月上旬、高校卒業が正式に決まりましたが正直、卒業の実感が湧かず、何とも言えない気持ちでした。自分の意思ではなく、無理矢理で。卒業式も行きませんでした。
4月上旬に何となく学校に行くと、そこには一人の先生が居ました。勉強も精神面も私の高校生活の全てを助けてくれた先生でした。その先生が居なかったら今の私は居ません。その先生と私の二人だけの卒業式をして、たくさん話しました。「あんな事があったね」「これ覚えてる?」とか。やっと1年間頑張ってあそこで諦めなくてよかったと。
今、真っ暗なトンネルの中で先の見えなくて立ち止まっている方々へ伝えたい。ずっと一緒にいるから、安心して、大丈夫だよ。みんな苦しい中で朝起きて、ご飯食べて、寝て、泣いて、笑って。毎日当たり前のことができるだけで偉いのです。
自傷しても何もいいことないよ 2021.06.10
私の左腕と手首はリスカ痕だらけで半袖も可愛い服も着れない。分かっていても止められなかった。切るとスッキリするし、周りの大人に心配してもらえる。私は言葉にして助けてと言えず、リスカは唯一の助けを求める手段だった。児相でも虐待がひどくないから、と最初は助けてもらえず、リスカして初めて辛さを理解して同情された。しかし、もっとひどく切らないと同情してもらえないと思い、レッグカット、OD、首吊りとエスカレートしついに入院。
入院はとても辛くて、夜中にシャーペンで腕を傷つけて看護師さんに見つかり保護室に。持ち込めるのは身体だけの何もない辛い部屋に2週間近く居て、その後は大部屋に移り友達もでき、「もう自傷はしない」と1か月で退院した。でも今、2回目の入院中。自傷は抑えられず、今回は保護室から17日間いた。
周りの多くの人の信頼を失い、ひどく後悔をした。一瞬の快感の為にした自傷で、こんなにも惨めで胸が苦しいならもうしたくないって思った。今回は前回のように早く帰れず、最近ようやく退院に向けて動き出しているけれど、ドクターや家族の信用を失い、取り戻せても当然かなりの時間がかかる。
だから自傷を止める方法や対策を考えた。私はパニックなので事前に薬を使う、音楽や好きなTVを見聞きする、本を読むなど気を紛らわして努力している。何故なら、自傷をしても何もいいことはないことがわかったから。
高校生になりたかった 2021.02.10
過食症になって3年。現在高校3年生の私には、「過食症」というお友達がいる。かれこれ3年も共にしているので親友と言っても過言ではない。
10代の後半から地獄の日々を過ごしてきた。不登校、高校編入、家族との別居、強制入院、祖父母との絶縁。
気付けば身近な人の影がなくなって一人になっていた。笑うことが出来なくなって、人としての感情すらもなくなって生きている心地がしなかった。
お金も食に費やした。悪い事も全て「私が生きているからこうなったんだ」と責めた。友達と笑いあっている同じ高校生を見ると苦しかった。
でも今生きている。なんとか生きている。携帯の中に「ばれない死に方」とかたくさん調べているけれど、何とか生きている。頑張るのはもう疲れた。だから私は一日一日をとりあえず生きてみようと思う。
穴が開いている 2021.02.10
ぽっかりとどこか穴が空いている感覚がある。何となく虚しくて、死にたいと思う。埋めたい所が空っぽで、減らしたい所がいっぱいいっぱいで。どうしようも無い気持ちを薬で逃げて誤魔化す。
本当なら沢山の綺麗な物で満たされているはずの器。でも私のは穴が空いていて中に入れてもどんどん出ていってしまう。
もっと自信を張れる自分になれていたなら、この器に穴が空くことなんてなかったんだろうな。沢山の自信や肯定で埋まっていたんだろうな。
周りからの愛情や評価をきちんと受け入れられる、穴のない器。そうはなれなかった自分と現実が苦しくて、穴の空いた器を抱えて、今日も「死にたい」を吐く。
特集「見えてる?聞こえてる?」 2021.10.10
幻聴とは実在しない人の声が聞こえること。統合失調症の症状とよく言われますが、他にも解離性障害や高齢者の認知症でも起こります。また脳梗塞や脳外傷などの脳に損傷を受ける病気でも生じることがあります。
しかしストレス過剰になると、誰でも起こりうるとも。それだけストレスと脳と症状は関係が深いのです。
統合失調症
高校生の時、いじめが原因で発症しました。この病気とは16年付き合っています。入退院も8回あります。幻聴も耳元で言われて、寝てても起こされます。「殺す」「死ね」って言われて恐怖です。その恐怖で死にたくなって、リスカ、ODは当たり前にやってました。
私は元気ないのに、幻聴は元気があってよろしいようです。
でも今回でリスカ、ODを卒業したい。
きっかけは同じ仲間に会えて、話できたことが大きいです。
同じ思いを体験していてわかってくれる人がいるだけで、私の気持ちはちょっと違います。
双極性障害
私はある事をきっかけに、幻聴が聞こえるようになってしまった。そのきっかけとは、誰かの悪戯による、夜中の玄関のドアのノック音、そしてドアチャイムだった。その悪質な悪戯は暫く続き、私は毎晩脅え、身構え、眠れぬ日々が続いた。
その後警察に見廻りを強化してもらった結果、その悪戯は収まったのだが、いつからか私は、眠りにつくかつかない頃おいに、ドアのノック音が耳にダイレクトに聞こえるようになってしまったのである。
その時の衝撃と恐怖心は尋常じゃなく、これは明らかに幻聴だと確信した。しかし時を経て今は、幻聴が聞こえても、自身の不調のバロメーターなのだと冷静に対処出来るようになり、症状と向き合う事の大切さを学んだ。
桜の樹の下で 2021.04.10
私にも悲しい別れがある。一人は、駆け出しの私に死にたいと訴えて、常に刃を向けられているようで、それは辛かった。ところが彼女は生きる道を見出したその矢先、不慮の事故に遭遇して亡くなった。
もう一人は、若い頃から患った経験から、社会の居場所の必要性を訴えて今の礎を築いた。摂食障害が落ち着いた後、今度は身体の難病を発症して帰らぬ人となった。二人は奇遇にも同じ墓地の桜の樹の下に眠っている。
闘病の最中、二人は幾度となくこの三途の川のほとりを訪れたろう。しかし誰かに何かを諭されて、元来た道を引き返したに違いない。今はもう、訪ねてくる後輩の話を聞く『番人』だが、「今来る所じゃない」とこちらに追い返してくれているようだ。
大勢戻されてくるから、とても頑張っている。彼女らもどんなにか褒められたかろうと思う。でも後輩らは戻せても、彼女ら自身が戻ってくることはない。三途の川は、それほど現世を遠く深く隔てている。
人間関係の多くは面倒で煩わしい。しかしそれを越える何かがあると知っているから、どれほど煩わしく、何度失敗しても、やはり私たちは人に会いたくなる。現世に在ることは、人と居ることはこんなに尊い。(支援者)
特集「今年一年を振り返って」 2020.12.10
統合失調症
私は旅行で始まり旅行で終わる1年となった。諦めていたフランスにも行けて嬉しかった!そして、病気なら病気なりの対策をとって行けば、旅行も大丈夫と実感した。
旅行を通して思ったのは、自分自身のメンテナンスが大切という事。私の場合は、通院やお薬を飲み続けるなど毎日の積み重ねが基本です。この1年、見守って下さった先生方、家族、友達に感謝。12月には栃木県の「イチゴ狩り」が待っている。ワクワク・ドキドキ!
発達障害
「がむしゃらに成長した年」
今年一年を振り返るとこんな言葉が思いついた。コロナという言葉は、介護施設の清掃員という職業柄、これといった変化が生活面でなかったので、あえて使わない。上司との衝突、プライベートで発見した自分の新しい一面。良い事も悪い事も差が激しかったが、それを乗り越えてきた。だから「がむしゃら」という言葉をつけた。ベストを尽くし、成長したと実感してる。来年も良い年に出来たらと思う。
支援者
今年は新しいことにチャレンジする1年になるはずだった。そう決めた自分の選択、未来に期待していた。コロナ禍は想定外だったが、それは皆同じなのでそのことを理由にはしたくない。何をやってもうまくいかなかった。出来ない自分を認めざるをえず、何も出来ないままチャレンジは失敗した。
今は自分を肯定的にみることが出来ないのでネガティブな気持ちでいっぱいだが、来年は運気が変わってほしいと切に願っている。
パーソナリティ障害
今年の初めに母が亡くなり、コロナが流行し、夏に祖母が亡くなり、その直後に娘が抜毛症になり、旦那と別居する(現在進行形)という怒涛な一年でした。
一難去ってまた十難くらいな勢いで、毎日色んな感情が目まぐるしく押し寄せてきて、でも、子ども達には心配かけさせたくないし、辛い顔しながら育児はしないように、私なりに仕事と育児と家事と、目の前にある事だけに集中して、日々希望を忘れずに、一生懸命頑張っています。
家族
家族会と繋がり5ヵ月後、距離をとる必要性を知った私は、ボーダーの娘に行き先も告げず私の限界と2年後の再会を記し家を出た。娘に振り回された過酷な日々を思うと2年間は夢の世界!
遂に2年たち7月に再会。でもまた現実と向き合わなければ。娘は役所の人や友達に支えられ必死に生きてきたそうだ。自分を見つめ直しこれからの生き方を探し始めた。私は家を売却し新たな拠点で暮らす。お互いこれからが本番。離れられて良かった!
特集「新型コロナウイルス流行下で考えたこと」 2020.06.03
うつ病・双極性障害
躁鬱の最中にいた時は、コロナの影響は計り知れないものがあったと思う。鬱のど真ん中にいた時なら、自身のことでいっぱいいっぱいで、コロナは自分が死ぬチャンスとまで思っていただろう。
躁で地上100階にいた時なら逆に、「自分が世界を救う!」と豪語していたかもしれない。
今、回復途中にあって思うことは、生き続けることの「尊さ」であり、「責任」である。病と闘う中で、冷静な思考を持つことが少しは出来たのかもしれない。
摂食障害・発達障害
パスタソースは買えたが麺は買えなかった。いつもと違うメーカーならあった。悩んだが、買わずに帰った。自粛による休業で、いつもの靴下も買えなかった。
知ってる味、毎日同じ商品を使うことで安心を買っていた。安心は代用が利かない。譲歩できるところはないか探して、パスタソースをご飯にかけてチーズを振った。断腸の思い。ギリギリ食べることができた。
靴下はどうしよう。これを機に新しい感触に挑戦!とは思えなかった。
当事者・ママ
どんな問題も時間が解決してくれることが多いと思う。でも、「すぐに解決したい」「この不安を抱えたままでいられない」と待つことが難しい。
その問題が家庭内での問題である場合、この自粛の中でテレワークや学校休校など家族が狭い家の中で過ごす、家の中が密になっている状況では非常に難しい。
毎日解決できない問題と嫌でも向き合わないといけない。リビングでお互い家事や仕事や勉強をせざる得ない、個室がない場合、距離をとるのが難しい。
うつ病・双極性障害
夫が在宅勤務で朝昼晩の食事を作らなければならなくなった。でもただ今躁状態。家事がサクサク進む。やりたくなかった家事も出来てしまう。達成感の嵐だ。とても気分が良い。
家の中の掃除。苗をプランターに植え替える。手芸を始めたり、私はこのご時世の中、有意義な毎日を送れている。制限された中で出来る楽しみさがしが得意であります。
アルコール依存症
コロナの影響で依存症が進行する人が増えている。僕はアルコール依存で今は断酒に成功しているが、治療に繋がる前にこの状況を体験したら間違いなく連続飲酒になった筈だ。
世の中収入がなければ生活できない。その不安を緩和するために酒に走る。自業自得だがそれが依存症。
断酒できている人も失敗者が出てくる。感染防止のために自助会の例会が開けないからだ。例会は重要な治療の場。再飲酒は死に繋がる。早期終息を祈るばかりです。
パーソナリティ障害
あの頃に比べれば今はちょっとした不安にも動じない対策を講じれるようになったのかもしれない。
前職で人間関係に疲れた私は、今は在宅ワークを目指して日々勉強中。すっかり自粛生活を満喫。引きこもり生活は水を得た魚のようだ。
カフェミュージックのCDを借りて部屋で流し、コーヒーをいれて、お手製『自宅カフェ』でPCと向き合う日々。これを機に部屋の掃除にも本腰をいれる。今ある中で出来ることがあることを知った。
特集「生き残ったわたしたちのエピソード」 2020.04.03
はじめに
SANZというこのサイトが立ち上がって一年。
ここに立ち寄って、とりあえず渡るのを踏みとどまってくれた方がいてくれたら嬉しく思います。
娘はこの川のほとりのお茶屋さんの看板娘になるはずが、3年前に渡し船に乗って川を渡ってしまいました。
黒猫はみーこという名で娘が可愛がっていた猫です。この子はそれから1年後に娘のところに渡りました。
毎月一度、SANZの編集会議がありますが、ここでは娘と同じ苦しみを抱えた当事者や編集員の方、心理士の先生が参加して話し合いをしています。
私は最初からこの会に参加し、娘からは聞けなかった当事者の方の苦しみや体験談などを直接聞いたり、時には親の立場から思いを話したりしています。
初めは苦しくなることもありましたが、仲間たちに気づかされることも多く、まだまだ揺れることは多いものの、以前よりも気持ちが落ち着いてきているのを感じています。
ここでお茶でも飲みながら、色々なエピソードを読んで少しゆっくりしていって下さい。
うつ病・双極性障害
本気で死にたいと思った。2度のODをした。結果死ねなかった。きっと神様がまだ生きていなさいと言ってくれたのだと悟った。世界は変わらないのだ。
アルコール依存症
俺が俺がで生きてきた僕は、追い詰められて自分の無力さを思い知った。そんな時巡り逢えた主治医に、心の傷を打ち明けられた。涙と共に、話すと楽になれる事を知った。
パーソナリティ障害
気持ちを分かってほしくて男や親を振り回した。でも、他人は常に自分の欲しい答えはくれない。それで大炎上。今は人を巻き込まず波が過ぎるのを待つ。
発達障害
同級生の死から自死遺族の気持ちを理解した。希死念慮が収まらない時僕は頓服薬飲むようにして頓服と睡眠薬を飲むと眠気に襲われ気持ちが落ち着いた。
うつ病・双極性障害
一秒先まで生きる一秒先まで生きる一秒先まで生きる。ずっとは続かない。ずっとは続かないから大丈夫。唱え続けて死にたいの嵐が過ぎるのを待つ。
特集「『精神科』に辿り着くまで」 2019.10.03
どんな異変を感じて、どのようにして精神科に行くことになったのか。家族や友人、学校や職場の人、誰に相談したか。自分から行ったのか、誰かに連れて行ってもらったのか、連れて行かれたのか。行政機関や病院の他の科から紹介されたのか...。『精神科』に辿り着いた経緯について当事者、家族に聞きました。
アルコール依存症(通院歴11年)
数々の問題飲酒後に断酒を試みるが、試してみると?全く眠れない。手足は震え、目を閉じると眼球が痙攣。身の危険を感じて妻の探した精神科を受診。アルコール依存症と診断を受け入院。薬でようやく眠ることができた。
発達障害(通院歴12年)
21歳の6月。最初の職場で人間関係と仕事があまりにもできないことに悩み、何回も自殺未遂を繰り返して、母親に精神科につれていかれたのがきっかけです。
家族(娘がパーソナリティ障害・通院歴14年)
娘が16歳の時、ある夜突然「苦しくて消えたくてどうしたらいいかわからない。楽になりたいから精神科へ行きたい。」と言った。ネットで調べて何となく良さそうな精神科を初めて受診したが、以来6人医師を変えた。
うつ病・双極性障害(通院歴19年)
20歳春。強烈な希死念慮に襲われ、このままでは自分に殺されると恐怖を感じ、精神科クリニックを探し受診。初診を終えてから両親に報告。3年後、別のクリニックで双極性障害の可能性を指摘された。
パーソナリティ障害(通院歴19年)
亡くなった叔父が精神科に通っていたため、ずっと受診しなかった。精神科に行ったら人生終わると思っていた。しかし学校を退学すると引きこもり、周囲が困り受診へ。私は「人生終わりでいい」と思い、精神科に行った。とっくに限界を超えていた。
摂食障害(通院歴23年)
スクールカウンセラーに友達の相談をしていたはずがいつの間にか自分の相談になっていた。一気に痩せた私に摂食障害の疑いがあると担任に伝わり親にも警告が出たらしい。中1の秋に心療内科へ入院、退院後精神科へ。
特集「年末年始のエピソード」 2020.01.03
特集「年末年始のエピソード」
日常が大きく変わる盆暮れ正月。記憶に残る年末年始の出来事を、当事者、支援者に聞きました。
看護師
昔は大晦日だけは0時までテレビOKとしていました。ホールで紅白歌合戦を患者さんと観るのも仕事の一つでした。時代が変わり、今は一人1台テレビ付きのベッドです。患者さんが観ているのはお笑いや格闘技。「時代だな~」と思いながら巡視していました。
管理栄養士
親族が集まり子ども時代の話で盛り上がり、当時流行っていたスナック菓子の話になりました。某社エビ風味のスナック菓子のキャッチコピーが「やめられないとまらない」だったことを思い出しました。
身近なところに依存物質が潜んでいたと気づきました。うわっ!お酒飲めなくても危険なものってこの世にあるのね、と思ったウン十年後、まさか日本一のアルコール依存症の病院に異動になろうとは思わなかった。
統合失調症
今日、ご褒美にお手軽なエステで、被害妄想でこわばった顔をほぐしてもらってきました。そしたら、本物のヒアルロン酸が入ったドリンクのプレゼントが(笑)。飲んだら被害妄想なおるかなぁ(笑)。
(解説)治療に使う薬は、経口薬(飲んで服用する薬)以外にも、予防接種のような注射での治療方法があります。注射が有効なのは、直接血管に薬剤を入れるので、胃を通って消化して…という時間を短縮できること、また服薬忘れを避ける、月1回の注射で代用することの二つがあるのです。このエピソードは後者で、注射を「(美を維持する)ヒアルロン酸」と表現しています。
当事者
うまれて初めて妄想に苛まれ二階から落ちた。首はむち打ち、腰は骨が潰れた。寝込んで唸っていたら障害基礎年金打切の通知が来た。おまけで背骨に響く喉風邪を引き39℃の熱が出た。令和元年はこうして過ぎて行った。
統合失調症
統合失調症の俺、18歳からちょっとおかしいなと思い始め今は46歳になります。
正月と言えば平成16年1月1日、俺が生まれて初めて措置入院をした日、今でも忘れない、変な思い込みで近所の車のフロントガラスをゴルフクラブで割り、そのまま警察に連れられ精神病院へ、病院への移動中このまま警察に富士山の樹海にでも埋められてしまうのではないかとここでも悪い思い込みをしていました。
そういうわけで、過去にはとんでもない正月もありましたが、今ではライブに行ったり、テニスの試合に出たり、ドラムのレッスンに行ったり充実した時を過ごしています。大丈夫病気はきっと良くなりますよ。